9月

 

昔、私の家で鯉と鳥が死んだ。鳥は兄が飼っていて、私は上の家のおばさんがヒマワリの種をくれたことしか覚えていない。鯉は私が小学2年生の時、墓参りの帰りに拾ってきてその数日後に死んだ。名前もなかった。私はすべてが恐ろしくて仕方がなく、恐ろしさを知るのも恐ろしくて仕方がなく、その死骸を川に流した。浅い川だったからすぐ岩に打ち上げられて、白い鱗がいつまでも眩しかった。私は鯉をこれっぽっちも愛してなかった。天国で元気にしているだなんて傲慢だ。私は、誰が死んでも天国をつくらない。人はいつか死ぬけれど、死んだら死んだだけで、またどこかで会えることを祈ったりはしない。

鯉が死んだ日の晩ご飯は刺身と唐揚げとお吸い物だった。おいしいわけではなかった。どころか、むしろまずい。それでも私はそれを、精神的においしいと言った。みんな、感情移入の趣味もなく、死んだ生きものを楽しんでいる。死体に魂が宿っているだけ。それでは例えば、人類の死はおいしいのだろうか、神様は。

ゆるす。この不遜な言葉。神様じゃなくてもゆるすことはできる。しかし、せっかく震えながら犯した罪が帳消しになってたまるか、という気持ちもある。

幸せは罪ではない。

どんな不幸と引き換えの、どんな幸せも。

 

節目

 

私は蝶をピンで壁に留めました

もう動けない

幸福もこのように

この標本のように、生きれば

欲しいものや憧れているものを

本当の本当に諦められるまで

なるべく思い出さないように

何度でも針を刺す

わからない

きこえない

言葉に代って

今はこれがわたしの言葉

意味を通りこした言葉

 

 

太陽たっぷりの中で思いつく行動は、たいてい素直なんだと思う。こんな夏のような、人生にあんな一瞬があったということを、ふと思い出す。私の人生にはこんな一瞬があった。ゆるさないことが私の純粋だった。もっと優しくなって、ゆるそうとしたのは私の偽善だった。日光が足りないせいで伸びてゆく葉と葉の間のような沈黙。悲しいというのはいいね。雨が降っても、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない。きれいごとばかりの道へたどり着く私でいいと思ってしまう。