お墓参り

 

みんなのことがあまり好きではない、

というがばれないように、丁寧に、親切に接している。

会ったことがなくても、知り合いではなくても、名乗らなくても、墓場には花を添えることが出来るらしい。

もっと簡単に、名乗らずに、花を一輪供えるぐらいの感覚で、皆に声をかけられたら。

生まれたその時から、誰もが、墓石を持てばいいのかもしれない。

花屋に行っても欲しい花はないけれど。

 

 

たった数日間の想像妊娠を、医師はいつも誤診する。おめでとう。いつ頃ですか。それから、精神の悪阻が襲う。女は、そんなに、幸せになりたいのか。求めるべき対象は、超自然的なものではなく、この世のものでなくてはならない。超自然的なものは光である。それを一介の対象にするのは、それを低めることになる。都合よく使った「さみしさ」の分だけ、虚しさの卵を宿した。ひとつの夏が、わたしを襲った。みつからなかった顔を探す。ひどく光る太陽を見た。煙突の立ちならぶ風景を見た。失ったものは何だっただろう。失った代わりに何があっただろう。何をしてきた手かなどと問うこともなく、私の手から餌を食う兎。だいじなものぜんぶ。ひきずっているものぜんぶ。ちっとも開けない引き出しの中身。わたしからこころが溢れてゆく。たぶん、私が小さくなったために。そうやって自分をちっぽけにすることが、それでも、救いとして訪れる。私がひとつひとつ満たされていくなか、来年までもちこす空白はちゃんとあるのだろうか。小さい頃は、雪を握っても溶けないものだと思いこんでいた。今は、この手のひらにある温かさより正しいものがたくさんあるらしい。一人ではない。そのことがときどきかなしく重い。

 

今思うこと

 

死にたいと書くことで死なないですむのなら、詩は薬よりも役に立つ。

本で探そうとしたのはまちがいだった。救われようとして、どこかの誰かが作った呪文を探したのはまちがいだった。私は私だけの呪文を作らなくてはいけない。

最近は特に。自分がつまらないという事実が年々重くなって、生きるのを楽しめない。絶えず何か楽しいことを探さないといけない。そもそも楽しむ能力がないという事実がとてもしんどい。まだ、半分も終わっていない。とても疲れた。

ふとした躓きで、見えない痛みを捕える。

その痛みをながめていると、意識は十字架の方へと連れ去られていく。

苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとかは求めない。あらゆる出来事に神の働きかけをみる信仰や、ふつう宗教の中に求められるいっさいの慰めは求めない。

そのかわり、苦しみによって何かを失くさないように求める。誰かが私に害を加えてくるとしても、その害悪のためにわたしが堕落しないように求める。実際にはその人が私にどんな害も与えなかったということになるために。

今私たちを温めている湯は、かつて雪だった。

つまり、喜びと苦しみとが対立している訳ではない。そうではなく、それぞれの中でさまざまな種類のものが共有しあっている。地獄のような喜びと苦しみがあり、魂を癒やすような喜びと苦しみがある。

神様はいると考えて充実したよろこびを感じ、自分は存在しないのだと知っても同じ充実感を味わう。これらは全て同じ事である。

ほんの一瞬でも生き延びてて良かったと思える瞬間があればそれで良いのかもしれない。

もう何もかもが懐かしい。

一日一日をきちんと努めて、人に優しくして暮したい。山茶花の花びらが桜貝に見える。何も着ないまま、何も持たないまま、従順に自然の一部分となることのできなかった悲しみが、貝殻をにぎりしめようとする指先にかすかな血となって滲んでくる。

自分の本心でしたことで人を傷つけてしまう。

大切な人達が、蒼ざめたまま目を伏せて、私とは目を交わさない。あの角度。あの優しい斜めの角度をずっと見ていると、その一匹を釣り上げて殺したくなる。一つ一つの確実な死を、ほんの少しひきのばすためにたくさんの日常が費やされていく。それでもやがて死ぬ親しいものの命を庇って、わたしは他人を殺しつづけてきたのではないか。

にぶってしまった針の尖でつきさせるものは、もうない。それでいいのかもしれないのだけれど、けれども。

それでも、毎朝白いシーツを替えて、家を出て、帰宅した時、お布団が真っ白でピシッとなってることが今の私にはとても嬉しい。この事を生きてる中で一番嬉しいことにしたい。

白いままだと信じられている雪はつらい。

汚れない雪などどこにあるのだろう。

純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。