たった数日間の想像妊娠を、医師はいつも誤診する。おめでとう。いつ頃ですか。それから、精神の悪阻が襲う。女は、そんなに、幸せになりたいのか。都合よく使った「さみしさ」の分だけ、虚しさの卵を宿した。みつからなかった顔を探す。ひどく光る太陽を見た。煙突の立ちならぶ風景を見た。失ったものは何だっただろう。失った代わりに何があっただろう。何をしてきた手かなどと問うこともなく、私の手から餌を食う兎。だいじなものぜんぶ。ひきずっているものぜんぶ。ちっとも開けない引き出しの中身。求めるべき対象は、超自然的なものではなく、この世のものでなくてはならない。超自然的なものは光である。それを一介の対象にするのは、それを低めることになる。少しずつわたしからこころが溢れてゆく。たぶん、私が小さくなったために。そうやって自分をちっぽけにすることが、それでも、救いとして訪れる。私がひとつひとつ満たされていくなか、来年までもちこす空白はちゃんとあるのだろうか。小さい頃は、雪を握っても溶けないものだと思いこんでいた。今は、この手のひらにある温かさより正しいものがたくさんあるらしい。一人ではない。そのことがときどきかなしく重い。

 

今思うこと

 

死にたいと書くことで死なないですむのなら、詩は薬よりも役に立つ。

本で探そうとしたのはまちがいだった。救われようとして、どこかの誰かが作った呪文を探したのはまちがいだった。私は私だけの呪文を作らなくてはいけない。

最近は特に。自分がつまらないという事実が年々重くなって、生きるのを楽しめない。絶えず何か楽しいことを探さないといけない。そもそも楽しむ能力がないという事実がとてもしんどい。まだ、半分も終わっていない。とても疲れた。

ふとした躓きで、見えない痛みを捕える。

その痛みをながめていると、意識は十字架の方へと連れ去られていく。

苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとかは求めない。あらゆる出来事に神の働きかけをみる信仰や、ふつう宗教の中に求められるいっさいの慰めは求めない。

そのかわり、苦しみによって何かを失くさないように求める。誰かが私に害を加えてくるとしても、その害悪のためにわたしが堕落しないように求める。実際にはその人が私にどんな害も与えなかったということになるために。

今私たちを温めている湯は、かつて雪だった。

つまり、喜びと苦しみとが対立している訳ではない。そうではなく、それぞれの中でさまざまな種類のものが共有しあっている。地獄のような喜びと苦しみがあり、魂を癒やすような喜びと苦しみがある。

神様はいると考えて充実したよろこびを感じ、自分は存在しないのだと知っても同じ充実感を味わう。これらは全て同じ事である。

ほんの一瞬でも生き延びてて良かったと思える瞬間があればそれで良いのかもしれない。

もう何もかもが懐かしい。

一日一日をきちんと努めて、人に優しくして暮したい。山茶花の花びらが桜貝に見える。何も着ないまま、何も持たないまま、従順に自然の一部分となることのできなかった悲しみが、かすかな血となって滲んでくる。

自分の本心でしたことで人を傷つけてしまう。

一つ一つの確実な死を、ほんの少しひきのばすためにたくさんの日常が費やされていく。

やがて死ぬ親しいものの命を庇って、わたしは他人を殺しつづけてきたのではないか。

にぶってしまった針の尖でつきさせるものは、もうない。

毎朝白いシーツを替えて、家を出て、帰宅した時、お布団が真っ白でピシッとなってることが今の私にはとても嬉しい。この事を生きてる中で一番嬉しいことにしたい。

 

 

ひとり

 

かつて踏みきったまま

未だ空中をさまよっている足が

虚ろに、けれど現に

角をまがった

なにかとてもだいじなことを

思い出しかけていたのに

視界の左すみで

山茶花の花びらが

耐えきれないように

無惨な散り方をしたので

こんな時

ここにいない人の肌を感じて