答えのない問いの中に沈潜することがある。答えはわからない。ただ「どうして」という問いだけが残る。それでも私は信じている。これで、神様までいないなんて、それこそ許されない。神様はいる。きっといる。
画家のシャガールは、生涯を聖書とサーカスに大きな関心と寄せていた。
「サーカスというそのことばには魔力が秘められている。古代から伝わる踊りの中で、表情や足や腕のしぐさが偉大な芸術に一変する。サーカスは私にはもっとも悲しく思えるドラマである。人間の喜びの探究者のこの上ない叫びである。それらは、しばしば高尚な詩で表現される。泣きながら人間愛を夢見る天才的なピエロは、理想を見出さそうとするドン・キホーテのように見える。」とシャガールは言ったという。そして、
「磔刑図や他の宗教画を描くたびに、サーカスの人々を描きながら感じるのとほとんど同じ気持ちがこみ上げてくる」とさえ言った。
悲しみと喜びは相反するように思えるけれど、両者は人が人として生きる上でなくてはならないもの。それはひとつの事柄なのだと思う。
涙は、悲しい時にも嬉しい時にも流れる。泣きながら笑う日がある。ただ泣いているだけではない。悲しいし、苦しい。でも笑っている。そんな日が人生にはある。
喜びを感じるためには、悲しみを感じる代価が要る。悲しみを知らずにすむためには、喜びを知らないという代価が要る。
私はこれからも悲しみの代価を払っていく。
喜びが好きだから。